創始者(前理事長) 小堀雄久「私の履歴書」

 この財団は、国を思いその発展に貢献しようと勉学にいそしむ学生を支援するために設立したものです。経済的困窮からその希望と夢が断たれないようにと願い、その一助になればと思っています。さらには、こうした学生支援の思いを持つ同士が広く賛同してくれて、より力のある公益財団になることを願っております。
 さて、私がなぜ財団を設立したか、その一端をご理解いただければと思い、私のたどってきた道をかいつまんで紹介することにします。

誕生

 1932年6月に東京府浅草区橋場に生まれました。父の小堀明次は、財閥、大地主が所有している古時計の修理などを行う天才的技術者で、1925年4月にこの浅草に自営の工場を設立し、弟子をかかえましたが、自分の後継ぎを養成することは不可能であると悟り、弟子のため時計部品の製作を行い、自分は古時計の修理をおこないました。

 父明次と母コウは3男6女の子どもをもうけ、私はその第6子3男として生まれました。 父は1938年5月に亡くなるまでこの大家族を支え続けてたばかりではなく、かなりの資産と数名の技能者を残してくれました。それ故、小堀一族は家業を続けることができ、また私は当時不治の病といわれた敗血症から日本になかった抗生物質ペニシリンによって一命をとりとめた第一号かもしれません。そのために母はかなりの資産を使ってくれたようです。

 

小学校入学

 1939年4月に東京市石浜尋常小学校に入学しました。その2年後、1941年12月8日にわが国は太平洋戦争に突入しました。この年に尋常小学校は国民学校に制度替えになりました。

 戦局も進み、米軍による本土の攻撃が始まりました。 1944年初めに縁故疎開ということで、まだ元気だった祖母と私と妹たちは 父方の祖父母の故郷である栃木県宇都宮市郊外に疎開し、豊郷村立中央国民学校に転校しました。5年生の時です。

 翌年の1945年3月10日は東京が大空襲に見舞われました。疎開先からも東京の方の空が赤々としていたのを覚えています。この空襲で実家のある浅草は甚大な被害を被り、小堀一族は親戚のつてで東京府目黒区緑が丘に転居しました。

東京府立第七中学入学

 1945年4月に東京府立第七中学に入学しました。長兄が学んでいた中学でしたが、父の死で家業を継ぐことになり、やむを得ず学業に見切りをつけざるを得ませんでした。その後、軍隊に召集され中国の南京に派遣されました。大変に優秀で暗号通信兵士として抜擢されていました。終戦を迎えたとき、暗号通信にかかわった者は戦犯の可能性があったため、将校たちは「何としても生きて日本へ帰って来いよ。部隊にあるものは何でも持ち出していいから」と言い残して、飛行機で日本にいち早く逃げ帰り、一兵卒である長兄は戦地からすぐに戻ることができず、一年かかって大変な思いをして復員してきました。長兄は帰ると緑が丘の住居の納屋を改造し、精密部品の製作を再開しました。当時は、ライターの部品を製作していました。

 話が少しそれましたが、私が通う府立七中は3月10日の東京大空襲では焼けませんでした。私は自由が丘から東横線と地下鉄銀座線を使って通いました。浅草・松屋から東武線に乗り、曳舟駅で降ります。3月の空襲で被害がなかった校舎も、5月の空襲で焼失してしまいました。堀切から青砥付近までの線路側はすべて焼失し、東武線は久しく開通することがありませんでした。七中の焼失後は、近くにあった寺島小学校の校舎を借りて授業が行われました。

 終戦後も浅草駅で降りて隅田公園の土手を歩いて通いました。 七中の校歌は文豪・幸田露伴が作詞したもので名歌との評判が高いものでした。無二の親友であり、財団の名誉相談役である上野吉光氏(浅草・丸千の会長)と学校の帰り、墨田川の土手を歩きながら愛唱したものです。上野氏とは帰りはいつも一緒です。言問橋を渡れば上野氏の実家がすぐでしたが、 話に熱中し遠回りになる吾妻橋まで付き合ってくれました。
 上野氏は学校の成績が大変優秀で東大を目指していましたが、失敗してしまいました。私が勉強時間を奪ったからでしょう。外語大学に入学しましたが、翌年再度東京大学に挑戦し、文科Ⅰ類に合格、文Ⅰから法学部へと進みました。卒業に必要な単位をさらに30単位以上も余計に取得し、8番の成績で卒業した秀才です。

 さて私はというと、1951年3月に都立第七高等学校を卒業しました。府立七中が学制改革で都立第七新制高等学校と校名が変わったのです。現在の都立墨田川高校です。

そのころ家業の精密工業は拡張期で新しい機械を次々と導入していました。自由が丘駅の隣の都立大学駅近くにキヤノンの工場があり、昭和21年からカメラの製作を始めていました。そこからの仕事が我が工場にも回ってきていました。私は新しい機械を使いこなすことができ、貴重な戦力でした。そのため大学卒業後, 進学しないで家業に従事することになりました。

 当時、キヤノンの初代工場長が時々、我が家の工場に立ち寄ってお茶を飲んでいきます。横浜高専(現・横浜国大)を出た方でした。ある時、長兄に私のことを大学に進学させたほうがいいと勧めてくれたのです。そのかわり仕事はいくらでも回すということでした。私の仕事ぶりや日ごろの言動をみて、私にもっと広い世界に進み活躍することを期待していたようです。

東京大学入学

 キヤノンの老工場長の勧めもあって、長兄は私を大学に進学させることに決めました。当時の大学入学試験は、1949年から始まった全国統一試験「進学適性検査」と大学ごとの試験を併用して行われていました。私は1年間のブランクはあったものの進学適性試験の成績が良かったため、1952年4月に東京大学理科Ⅱ類に合格したのです。Ⅱ類は370名でした。現在の医学部専攻課程の理科Ⅲ類はなく、Ⅱ類に入っていました。当時の東京大学の入学者は理科系はⅠ類430名、文科系は文Ⅰ、文Ⅱ合計1200名で総計2000名でした。入学後はドイツ語コースを専攻し、多くの同級生は医学部を目指していました。私も当然医学の道に進むつもりでいました。医学部の進学者には解剖実習が課せられます。初めはホルマリン漬けの大きなガマ蛙で、次は生きている兎でした。どぎつい血管の色、各種の臓器の色を見るに及んで何ともいえない不安を感じました。さらに本郷の医学部の解剖室で多くの人の検体が並んでいるのを見てとても耐えられず完全に自信を失い、医者への道をあきらめました。 東京空襲後、通学で隅田川の土手を歩いていると、川に遺体が浮かんでいるのを何度も見ました。そのころは死体を見ることに慣れていたのですが駄目でした。

 そこで進んだのは、「三白景気」の時代だったので、紙・パルプ、木材化学の道でした。パルプの化学分析を進め、木質繊維から絹と同等のものを製造する研究室に入りました。

 研究にも力を入れましたが、在学中には多くの友人と語り合ったり、旅行をしたりその後の人生の大きな糧となったことも大学時代の思い出です。(注)

(注)

 1 友人の笠島氏(建築の道に進みました)と燕岳, 槍ヶ岳に登ったこと。完全装備の笠島氏に対して私は中古の軍靴を履き頭陀袋を担いでの登山で命がけでした。
 2 学友4名で九州一周旅行をしたこともありました。
 3 千葉の東大演習林(五千町歩)で樹木を調べ、トランシットを使って測量を行ったこと。
隣接する清澄山(きよずみやま)に日蓮が得度した大本山清澄寺(せいちょうじ)があることもその時知りました。
 4 林業科の助手をしていた方の援助で、檜の産地・尾鷲林業を訪ねて紀伊半島を一周したのも貴重な思い出です。
 5 4年の夏休みの時(約40日間)、造林学の中村教授の要請により北海道演習林(三万町歩)に行き、演習林の助教授を助けて窒素分析をするアルバイトをしました。日曜日は休みにしてくれたので、休みを利用し北海道を一周しました。また2日間の予定で演習林の助教授のお供をして, 熊除けのための笛を吹きながらポソドールという土壌を探して演習林の最高峰に登り、その晩は樵小屋で大接待を受けました。谷を越え、川を渡り、滝まであってその雄大さは忘れがたいものです。

 

興国人絹パルプ入社

 卒業も迫り、1956年に、資本金30億円という大企業の興国人絹パルプ(後の株式会社興人)の入社試験を受けました。その当時、王子製紙は資本金10億円の企業でしたので、いかに大きい会社か分かると思います。大企業の中では最も早い入社試験でした。筆記試験も終わり、面接の時に英語好きの専務と試験問題の英語の解釈でやりあい、駄目かなと思いましたが、採用結果の発表日よりはるかに早い翌日には、指導教官の右田教授に内定の電話が来ました。そのため、まだいろいろな会社の試験も受けられたのですが、教授に迷惑はかけられず、ほかのところはすべてやめて入社を決めました。 

 1956年に入社した者は国立大学のエリートばかりで 将来の重役候補でした。研究所の雰囲気があまり好きでなく、工場の現場を希望し、会社で一番大きい富山工場を選びました。熊本県の八代などにも工場がありましたが、東京にも近いということで希望しました。 

 当時の富山工場は、敷地が100万坪以上もあり、従業員が3万人以上いました。そのため一つの町を形成し、今でも富山市興人町として町名に残っています。現場を望んだのですが、意に添わず研究所に配属されてしまいました。逆に他の大学出身の同期生は研究所を望んでいたにもかかわらず現場に配属されました。皮肉なことです。会社の寮に入りながら3年間研究所に勤務しました。研究成果を京都で開かれた学会で発表したこともありました。

 「酸性漂白」の特許をとり、さらに研究を続けるために東京に戻れるように願いをだしたところ、今度は東京大学にある綜合研究所に移ることになりました。そこではより天然の絹に近い人絹の研究をしました。静岡県富士市にも紙の工場があり、そこで新たな不織布の開発にも携わり特許もとりました。しかし石油から合成されるナイロンが発明され、世界的には合成繊維、合成樹脂の時代に移り、会社は次第に斜陽化していきました。

興人退社

 その頃です。日立製作所が新たに日立化成という会社を立ち上げるので将来の社長候補ということで来てくれと勧誘されました。緑が丘の家のすぐ近くで親戚が、日立製作所が接待などに使う高級クラブハウスを経営しており、よく重役が来ていました。その重役の一人が私に「雇われ社長になるよりは、オーナーでなければだめだ」と諭してくれたのです。せめて富山にいる時に話のあった、YKKの親族になったほうがましだ、そのYKKはやがては立派な会社になるだろうとも言っていました。

  また長兄は「一つの会社に入ったらそこの社長になるまで続けろ、その他の会社に移るようなら家業を継げ」と厳命してきました。そこでいよいよ腹を固め、家業に戻ることにな決めました。いざ辞めるとなったらいろいろのことがありました。興人の役員から辞めるのを思いとどまるよう懸命に引きとめられました。役員は、私の母を説得し、家業を継ぎながらでもいいから、興人にとどまるように働きかけきていました。母は、息子がそこまで見込まれていることに大満足だったようです。

小堀製作所に入社

 1961年3月に興人を退社し、4月には小堀製作所の常務取締役として指揮を執ることになりました。家業は1953年12月、 株式会社小堀製作所として新たにスタートを切り、キヤノンの第1号協力工場となっていました。資本金50万円、従業員は20人でした。
 そして、私はこの時から小堀製作所の経営のすべてを双肩に担うことになったのです。まず社長方針の作成と発令、工場建設、品質管理体制の確立、新鋭機械・設備の導入とその資金繰り、さらにはプライベートなことですが長兄及びその一族に関する対外折衝等もありました。
 最初に行ったのは、母の故郷の茨城県岩瀬町に工場を建設することでした。母方の祖父は二人とも水戸藩の中級武士の家柄でしたが、 祖父が事業に失敗し、母をつれ夜逃げ同然のようにして東京に出てきたのです。その母の名誉を回復したいという強い思いがあり、岩瀬町に工場を建設したかったのです。
 工場には自動旋盤を導入しました。そのカム設計を自分で行い、キヤノンやツガミ(大手の精密機械メーカー)の工数(作業完了までの人数と時間の指標)の半分で済むことにも成功しました。専門的になりますが、歯切盤に多条ホブを使用する技術ではキヤノンや他社の2分の1から3分の1の工数に短縮できました。
 キヤノンが小松製作所から高価なマイプレスを3台も導入しながら諸工程をマスターできずあきらめたところ、私はより安価な冷間鍛造機を導入、原材の加工前処理および型設計もマスターしました。そのためキヤノンはこの仕事のすべてを小堀製作所に注文せざるを得ませんでした。

防衛庁の仕事

 小堀製作所岩瀬工場の近くに工作機械メーカー・オークマの子会社があり、防衛庁の仕事をしていました。そこが、その仕事をやめたいと申し出て、ツガミと日平産業(前身は大日本兵器株式会社)が「小堀ならできる」と評価してくれました。私がミリスペック(Mil.Spec.) を解読できるということもあって、防衛庁の監査に合格し、1962年初めに昭和火薬(日本工機)や細谷化工に協力して防衛庁と取引を開始しました。その後、防衛庁の技術陣が技術面・知識面でより優れている小堀がサブということがあるかということで私にプライムになってくれと頼まれ、表示灯Ⅲ型の設計・開発に取り組み、度重なる実用試験で監査にパスし、防衛庁にプライムとして取り引きできるようになりました。その開発中には、三菱重工の名古屋の工場にも入場させてもらい世界的名機であるYS11だけではなく、ロケットもできることを知りました。またこんな技術者を一生のうちに一度は使ってみたいと思った2人の技術者の援助を受けました。

 防衛庁も実験航空隊の飛行機5機を2回飛ばしてくれ、海幕もボルボのエンジンを2機装備した高速艇に私を乗せて浜松沖に出してくれました。

 こうした防衛庁関係の仕事で大いに利益を得ることができて、会社発展の一助となりました。また、当時東南アジアの国境問題は常にトラブルの原因となっており、 国境を監視し、その証拠を残したいため双眼カメラ(写真)を作ってくれないかと頼まれ、1000台ほど製作しました。本体はTeflex(写真)、 レンズはTefnon(写真)として商標も登録しました。ところが、このTefnonの商標をめぐって後に米国とドイツのデュポン(DuPont)社からTeflonに似ているといわれのないクレームがつくことにもなりました。こっちは精密機械であり、向こうは樹脂なのにとは思いましたが、交渉の末、米国とドイツでの使用はあきらめました。しかし、世界のデュポンからクレームがあったことに誇りもある一方、世界企業のすごさも思い知らされました。

経営の多角化と米国WESTCLOX社との取引き

 その後、経営も順調で1970年には東京都大田区矢口の多摩川側にあった木造2階建ての本社工場を5階建てに大改築するため陣頭指揮に当たりました。そのほか海外への進出を試み、韓国、台湾、香港などを訪問し工場の立地調査を行いましたが、こっちは結論を先送りにしました。
 国内でも岩瀬工場ほか新規に工場立地をもくろみ、縁あって山形県大江町に昭和46年に工場を建設することになりました。 その工場長も兼務することになりました.
 1971年、当時東京都台東区御徒町にあった堀田時計店は、米国WESTCLOX社のドラム型のデジタル時計を製造していた四国精機工業株式会社(香川県坂出市)を傘下に持っていました。その堀田時計店を通してWESTCLOX社から、小堀製作所がある部品(今思えば武器の部品)を大量に受注することになりました。ちょうど仕事量が少ない時で、これで一息つくことができました。その縁もあって、堀田時計店から四国精機工業株式会社の生産合理化に代表取締役として当たることを頼まれました。

 そこで小堀製作所と四国精機の責任者としてWESTCLOX社と交渉するために、何度も米国を訪れることになります。アラバマ州のガズデン(Gadsden)市にも工場があり、ロスアンゼルス→アトランタ→ガズデンと飛び、品質打ち合わせを行いました。当時、中西部ではまだ人種差別が残っており、黄色人種の日本人の経営者が初めて市を訪れたので応対をどうするか商工会で問題になったようですが、商工会の来賓として迎えてくれました。次の日には現地の新聞にも私の同市訪問が大々的に載りました(写真)。
 しかしその後、WESTCLOX社からの注文がなくなり、やっと採算ベースに乗ってきたかと思われた四国精機の雲行きはあやしくなりました。結局、工場と従業員の半数を三菱電機福山SSに引き取ってもらおうとしましたが、工場長では手に負えないということで、私が東京本社の担当専務と交渉に当たり話がまとまりました。 まだ若いときで、その専務は大企業の大物中の大物でこうした人と交渉できたことが、限りない自信につながりその後の生き方に多大な影響を及ぼしました。

 最終的には四国精機工業から四国精密を分離し、1974年5月に私は代表取締役を退任することになりました。

世界へ飛躍

 1974年からは世界の先端技術調査のためにヨーロッパ各地を訪れました。当時、キヤノンから小堀製作所の株式を買い取りたいという子会社化の話が持ち上がっており、わが社は存続の岐路に立たされていました。キヤノンからは、ガラス(レンズ)には手を出すなと暗黙の圧力がかかっていましたが、山形県西川町に1976年に工場を建設, レンズの製造を始めました。 
 1979年には交換レンズの一貫生産を目指し、ガラスレンズの生産のために同県河北町に谷地工場を建設しました。5Ø mm~200Ø mm範囲の平面はもちろん、凸球面、凹球面のレンズに必要な機械設備と技術を持つようになり、特にポリシング(研磨)の精度修正を非常に短時間で行える技術も確立しました。さらにコーティングに必要な最新鋭の洗滌装置CNC (コンピュータ数値制御) -コーティング機も導入しました。そのためにはどうしても精密測定機が必要でした。それを製造しているのは米国のZYGO社でしたが、この会社の日本総代理店はキヤノンでした。だが、キヤノンを通すことはできません。それでもなんとか海外の友人の力を借りてZYGO社から測定器の購入と補修の契約を結ぶことに漕ぎ着けました。このことは小堀製作所にとって何よりも貴重な財産となりました。おかげで生産性向上に著しい力を発揮した超精密リセス皿(レンズ研磨用治具)を安価に作る技術を考案、製作指示して完成することができました。

 一方で製品の販路を見つけるために小堀製作所とは別に丸敬産業株式会社を設立し、代表取締役に就任しました。その際、小堀製作所の持っている商標TEFNON、KOBORONを丸敬に移しました。その時、テルモから商標がTERMOに似ているとのクレームがつきました。そこでこの商標は兄弟会社の小堀製作所がはるか昔に登録してあると答えたら、その後何の挨拶もありませんでした。 
 1980年には、北京の中国投資信託公司の要請で中国計量機器公司との合弁企業設立について話し合い、翌年の1981年に合意しました。ここではガラスレンズの生産を始めましたが、生産の遅れや不良品が多く、翌年には事業を中止、撤退せざるを得ませんでした。機械や設備はすべて中国側からは返ってきません。このころ中国に進出した企業は皆痛い目にあっています。

 一方でいよいよキヤノンとの吸収合併の話が、1982年に表面化しました。これを断りを続けるうちに、月額2億円あったキヤノンからの受注額は1983年には4分の1となり1984年にはついにゼロになってしまいました。取り引きは一方的に中止され、会社は窮地に陥りました。

Vivitar社との取引き

 キヤノンとの取引がなくなることは、ある程度見越しておりましたので、1981年に当時世界的なカメラ販売会社である米国のVivitar社と接触を試み、さらにドイツのカメラの交換レンズを手掛けるSOLIGOL社へ新規に販路の開拓を行っていたのです。こうして海外市場向けに交換レンズを製造販売することで、何とか危機を乗り越えることができたのです。
 その後、売り先を見つけるためにミノルタ、コニカ、フジ、旭光学、曙ブレーキ、トキナ、CBCなど日本国内の企業訪問は当然のことでしたが、相手は海外であると考え、命がけで世界を飛んで歩きました。訪れたところは世界30カ国、100都市以上に上ると思います。その成果もあがり、香港、シンガポール、米国、オーストラリア、スウェーデン、ドイツ、英国に着々と取引先ができました。

 韓国に協力工場として富源光学を見つけたり、バングラディシュ人を教育し, バングラディシュにPrecision社も作らせたりもしました。

海外の見本市

 海外に輸出している時には、毎年PMA(Photo Marketing Association)の見本市に参加しました。その足でVivitar社の研究所や同社が設立したVivtar大学を訪れました。大学では、Vivitar社の数名の上級社員と一緒に学びました。その時、Panasonic(パナソニック)の子会社のウエスト電気(現・パナソニック フォト・ライティング)の副社長と部長も来ていました。Vivitar社は、マサチューセッツ工科大学(MIT)、ハーバード大学出身の3人の光学博士をかかえおり、 私が彼らと対等かそれ以上の実力があることも認められ、大学からMasters of Higher Sales and Profitsの称号(写真)を授与されました。 Master の称号をもらったのは私だけでした。Vivitar社はこの称号には特別の思い入れがあり修士、博士とは異なった中世ドイツの称号であるMeister(マイスター)の意味をも込めています(Vivitar社の会長はドイツ系ユダヤ人でした)。
 これも何かの縁でしょうか、その後ウエスト電気と取り引きすることになり、さらにはパナソニックとも代理店を通してでしたが、取り引きすることになりました。
 ドイツのケルンで1年おきに開かれるPHOTOKINAにも参加し続けました。学生時代に医者を目指しドイツ語を専攻していたことが思わぬところで役に立ちました。

専務・社長就任

 丸敬産業はまた、国内対策として1982年に独自ブランド「テフノン・レンズ」の国内委託販売を試みましたが、採算をクリアできず、1986年に撤退することになりました。
 また、1982年にはこれまで続けてきた防衛庁や日本工機との取り引きにも幕を引きました。利益率が高いとはいえ、売上高が年間3億円以上になる見込みはなく、その打ち合わせや付き合いに時間が取られるばかりでした。

 1995年、時代は大きく変化し、小堀製作所も例外ではありませんでした。改革がどうしても必要で私が前面に立って指揮をふるわなければなりませんでした。そのため、1996年専務に就任、2001年4月に社長に就任しました。翌2002年には富源光学と共同出資して、中国に栄成富源小堀電光有限公司を設立、ガラスレンズの一部を中国でも生産することになりました。

最後に

 1961年に小堀製作所に入社してから2009年に社長を辞任するまでの49年間、役職を問わず、当初から会社経営の全責任を背負ってきました。
 当初1億円にも満たない売上高を10年で10億円、15年で20億円、20年で30億円そして最盛期の1998年度には60億円まで伸ばしてきました。その後、日本の産業空洞化に伴い、売上高は一時3分の1に落ち込んでしまいましたが、何とか3分の2まで回復させることができました。確固たる利益を計上できる経営体質に転換し、60%にも及ぶ法人税を納めた後も30億円にも上る内部留保と莫大な含み資産、さらには技術ノウハウ(特許)の蓄積を残しました。私が取得した特許は一部を残し、特許切れとなってしまいましたが、現在でも小堀製作所の技術に生かされ多大な利益をもたらしていると思います。
 私が社長時代に、小堀グループが大きくなるたびに会社概要のカタログを新しく作り続けてきました。その都度、航空機を2度、3度と飛ばして全社の航空写真を撮影しました。またホームページの制作、ISO規格の導入などにもいち早く取り組みました。

 述べたいことはまだまだありますが、とりあえずこの辺で筆をおきます。

 

その他

2008年10月に、東京大学基金の栄誉会員の称号が贈られました。
2009年6月に、紺綬褒章が授与されました。
2015年3月に、大改修により新装なった東京大学安田講堂(写真)に栄誉会員が刻印されたプレートが掲示され(写真)、 私の名前もその中にあります(写真)。場所は講堂の1階ロビーの左側です(写真)。

 

最後に
 創始者(前理事長)の小堀雄久は、2022年11月2日に永眠しました。
 今後は、私・小堀洋(息子)が理事長として、父の遺志を受け継ぎ、奨学生の目線に立って、財団の事業を誠心誠意務めていく考えであります。

小堀 洋